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今お話したようなラグビーをやめてからの12年間でしたが、この間『感性フォーラムとは何なのか』、『人間の発達課題は何か』をずっと考えてきました。 感性フォーラムは、アメリカの行動科学が始めた「ENCOUNTERグループ」に、ラグビーで得た体験や、禅、東洋哲学などを融合させたものです。自分自身に出会うためのいわば内観を、集団の力学を働かせながらやっていく、集中と観照の訓練ともいえるでしょう。 人は出会いによって成長します。もちろん人とも出会うのですが、その前に自分自身との出会いが大切です。今まで気づかなかった自分(気づかなかった夢、イメージ、可能性等)に出会うことが、人を変えていきますが、人間の一番奥底にあり出会うべきものは、真善美を求める心(真我・あるいは良知)であり、それは湧き上がってくる泉のようなものではなかと思います。未見の我との出会ったとき、人を前に押し出す湧きあがるものが生まれます。どんな夢を、どんなイメージを引き出してあげられるか、出会い(ENCOUNTER)が教育(EDUCATION)そのものであり、出会ったときに湧き上がるものが生まれ感性(EMOTION)が育てられます。感性とは自分を自分に返していく力、湧いてくる元、人に行動を促すエネルギーの泉のようなものだと思います。 感性フォーラムでは、研修の中で自分自身に目を向けていきます。自分を見つめるには勇気がいります。日頃、避けたり、よけたりしていた、辛かったこと、悲しかったこと、悔しかったこと、苦しかったこと等に目をむけると、どろどろとしたものの中から涙がわきあがってきます。その時、涙の奥にある素敵な自分(真我・良知)に気付けるのだと思います。 楽しい、うれしい、良かった、社会的な感情は実は偽装されやすいのです。反社会的な感情、辛かったこと、苦しかったこと、悲しかったこと、悔しかったこと、そんな中に人間にとっての真実があるのではないでしょうか。だからそんなものに向き合っていかなければなりません。真実はどろどろとしたものの中にこそ隠されているからです。 感性フォーラムの本質はこの自分を見つめるということ、原点に回帰することではないでしょうか。原点に戻ったとき自分が自分になって、人が人であることも認められる様になります。自分を見つめなみだを流すことにより、素直になり、当たり前だと思っていたことのありがたさに気付くのです。 心が純化、浄化され、良知の覚醒体験が起こり、内発的公共性に目覚め、エゴ中心性を脱却していくことができるのではないでしょうか。 しかし人間は、日ごろ自分に向き合うことから逃げています。また頭で物を見て、俺関係ないよと隔たりをつくり、そのものになりきれません。しかし、セッションを繰り返す中で、自分が皆に照らし出されて見えてきます。研修の中に浸りきって、ドロドロとしたものに向き合ったときに、湧き上がるものが生まれます。何にも湧き上がってこなかったら、ああしろ、こうしろと、人に言われたままに生きていくしかありません。湧き上がってきたとき、自分が自分に戻り、生きていることが鮮やかになってきます。感性とは自分を自分に戻していく力です。人間かどう生きたかは、何に対してどうときめいたかによって決まります。ときめかない人間、ときめきの薄い人間、感性の鈍い人は生が不鮮明です。湧き上がる体験をし、感性を育てることが大切だと研修に望んでいます。 しかし現代は「乾いた時代」と言われます。おしぼりでも乾くと軽くなるように、生活や生きることがが乾くと、軽くなってhしまいます。適度な湿り気は、汗や涙、湧き上がるものの中から生まれます。湧きあがった時自分が自分に戻るのです。自分が自分にならないで誰が自分になれるのでしょうか。 人間にとって真実とは何か、話は作れるし、飾れます。作れるもの飾れるものは真実じゃない。しかし湧き上がった時、作れない飾れない瞬間があり、そこにに真実の瞬間がありました。 今ここに浸り切った時に、あたかも今を最後のごとくに生きたときに、世の中の輝きが見えるのです。今ここを生きる、前後裁断できれば生きる達人になれます。青色と青さは違うぞと言われますが、青さが見えるようになるます。 流す涙がいろんなものを洗い流して、心を純化浄化させていきます。素直になり、『ありがとう』と言う感謝の気持ちが生まれます。 ところで人間は思ったことを実行します。心に思わないことは誰も実行しません。われわれの人生でも、すべては思うことから始まっています。心で思い実行したもの、その集積されたもので現在までの人生が形づくられています。人生、今の状況は、自分が過去に思ってきたことの結果なのです。 イギリスの哲学者ジェームズアレン(20世紀初頭)は、心は創造の達人だと言っています。「心は創造の達人です。そして、私達は心であり、思いという道具を用いて自分の人生を形づくり、その中で、さまざまな喜びを、また悲しみをみずから生み出しています。私達は心の中で考えたとおりの人間に成ります。私達を取りまく環境は、真の私たちを自身を映し出す鏡にほかなりません。」 このように、思いはその人の人生を決めていきます。思うことは自分の人生だけでなく周囲にも影響を与えていきます。やさしい思いやりの心、感謝の心、ありがたいと思えば優しい心になります。やさしい心で接すれば、周囲の人たちの心も和んでいきます。周りの人たちの関係は自分の心の反映なのです。憎しみ、恨みを抱きながら人間関係を作るか、いたわりと慈しみ、やさしさと感謝という心で接するか、自分の心の反映で周囲が変わっていきます。 ところが人間の心には、利他と利己が同居しています。良心と言う美しく素晴しい心と、薄汚くエゴに満ちた自分と。美しい心を真我と呼び、エゴに満ちたえげつない自分を自我と呼びます。 善きことを思うためには、善き心が心の大部分を占めるようにしなければならなりません。そうでないと、常に善いことを思い、善いことを実行することはできません。人間は思えば実行します。まず善いことを思わないといけません。善いことを思うためには、善い心が自分の心の中の大部分を占めていなければなりません。 ジェームスアレンは人間の心を庭にたとえています。 人間の心は庭のようなものです。それは知的に耕されることもあれば、野放しにされることもありますが、そこからは、どちらの場合にも必ず何かが生えてきます。もしあなたが自分の庭に、美しい草花の種を蒔かなかったら、そこにはやがて雑草の種が無数に舞い落ち、雑草のみが生い茂ることになります。優れた園芸家は、庭を耕し、雑草を取り除き、美しい草花の種を蒔き、それを育み続けます。同様に、私たちも、もし素晴しい人生を生きたいのなら、自分の心の庭を掘り起こし、そこから不純な誤った思いを一掃し、そのあとに清らかな正しい思いを植えつけ、それを育み続けなくてはなりません。 自然の庭と同じように、自分の心の庭も手入れをしなければ、そこには雑草の種が舞い落ち、雑草のみが生い茂る庭となってしまいます。だから、心の庭をいつも耕し、自分が望む美しい草花の種をまいて、それを育み続けなければならないのです。 心の手入れのためには、毎日の反省が必要です。人間であるかぎりエゴが出てくるが、野放しにするのではなく抑えていくと美しい心が出てくるのです。同時に感謝もしないといけません。うまく行ってないことがあるかもしれませんが、何とか家族を養っていけているのだとすれば、そのことに感謝する。感謝をすれば心がすっきりしてくる。感謝をして、喜びの気持ちを持つようになってくれば、当然、他人様にも喜びを与えたいと思うようになるから、思いやりに満ちたやさしい心が自然に出てくる。利己ではない利他の心が心の中を大きく占めるようになることを「心を高める」とうのです。 思いが芽生えた土壌が利他か利己かによって結果が決まります。美しいきれいな思いやりに満ちた土壌をつくることができれば、その上に思いの花を咲かせることができます。エゴに満ちた心に芽生えたものか、きれいな美しい利他の心に芽生えたものなのかによって、結果はガラッと違ってきます。 ところで人間には「良知への教育」と「良知の教育」が必要だといわれます。感性フォーラムはいわば「良知への教育」、良知の覚醒体験ではないかと思います。この良知への教育は人にしてもらうことができますが、良知の教育は自分でするしかありません。心の手入れは自分でしかできないのです。 しかしながら人間は弱いので、切磋琢磨する仲間の存在が大切になります。かつては陽明学に付随した共約運動という仲間同士で約束をして切磋琢磨する仕組みがあったのだそうです。それが薩摩の郷中教育になり、ボーイスカウトにも取り入れられたのだそうです。 −その3に続く− |
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自然の庭と同じように、自分の心の庭も手入れをしなければ、そこには雑草の種が舞い落ち、雑草のみが生い茂る庭となってしまいます。だから、心の庭をいつも耕し、自分が望む美しい草花の種をまいて、それを育み続けなければならないのです。 |
さんぼ 2009/04/20 16:43 |
さんぼさん、メッセージありがとうございます。 |
林 2009/04/22 07:30 |
林の裏話 |
事務局長 2009/05/03 18:33 |
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